所沢の畑(2016.05)

2016年の5月。

昔から苗半作〜七分作と言われるように、
幼い頃の育ちがその後の成長にかなり影響を与えるんですよね。
(人間もそうでしょう?)

僕は育苗については、過去と今とでだいぶ考え方が変化してきました。

以前は少しの肥料分も許せなかったので、
苗は畑で育てるか、畑の土を入れたポットで育てていたんですね。

結果、ひ弱な苗ばかりになってしまい、ほとんど収穫できませんでした。

もちろん畑がまだまだ痩せているということもありますが、
これは土の問題だけじゃなく、種の問題もあるんですよね。
その土で育つのに適した種を何代にも渡って選抜・育成するってことも必要なんです。

じゃあそれまでは収穫は諦めなきゃならないのか?

その年、買ってきた種ではダメなのか?

ホームセンターで売っているような培土は何が何でも否定すべきものなのか?

僕はね、これは違うと思うんですよ。
それを使いたいと思ったら使ったらいいと思うんです。
それは根本的に自由なんです。

だから僕は今の自分の生活スタイルに合わせて、
つまりは野良仕事にかけられる時間やエネルギーに合わせて、
あるいは健康状態等に合わせて、
育苗用の培土、畑においては堆肥、米ぬか、油粕などを用いて
最低限の収量までは漕ぎ着けられるようにする、という選択をしています。

こういうことを言うと、
“お前のやっているのは自然農じゃない”
と言われることもあります。

確かに一般的なイメージとしては、
人間の手を加えないことこそが“自然”なのかもしれません。

でもね、そのイメージに殉じることが
果たして生き物として“自然”なんですかね?

僕らが糧を得ようとするのって“自然なこと”じゃないですか?

鳥にとっての翼や、猛獣にとっての牙と同じく、
糧を得るためにあれこれ頭を使って工夫するのって、
僕らヒトにとって“自然なこと”じゃないですか?

そもそも人間だけが“不自然”だと捉えるからおかしくなるわけでしょう。

自然って草や虫や鳥や獣のことだと思っていませんか?
もちろんそれもありますが、それはほんの一部です。

文字通りの意味を考えるなら、
“自ずから然らしむ”
つまり、自然法則みたいなものです。

この世で起こっていることはすべて自然法則に基づいています。
だから僕ら人間も含めたこの世で起こる出来事はすべて自然現象。
そう、人間も立派な自然です。
極端な話、環境保全も環境破壊も等しく“自然”なんですよ。

そうだとすると僕がやっているのって、
どう考えても“自然農”だとしか思えないんですよね。

自然農法でも、自然農業でもなく、自然農。
それはメソッドや産業の別のない、純粋な農の在り方。
ひいては生き方を探求する道、です。

もちろん創始者の意思もあるので、
あまりにギャップが生じた場合は自然農という言葉を手放した方がいいのかもしれませんが、
トータルで見ればやっている事自体は比較的オーソドックスな自然農ですからね。
あくまで自分の考えに従った結果として、ね。

というわけで今後もあえて自然農という言葉は使っていくと思います。

そっちの方が分かりやすいでしょ?笑
その言葉に自身を縛り付けて安心するためじゃなく、
あくまで情報を探している人が見つけやすくするために意図的に使うってことです。

で、さっきメソッドの別のない云々と述べましたが、
これは農に限らず、人生の様々な場面にて言えることだと思うんですよ。

メソッドに縛られた時点でそれは本質から外れているんです。
ルールに逆らわず、疑うこともせず、
思考停止したただのプログラム。

ロボットみたいなものです。
(否定はしません。それも“自然”ですから。)

だから大事なのは、
ちゃんと自分で考えて行動すること。

そして何をしても自由なんですが、
“それをするということがどういうことなのか”
をちゃんと意識しながらする、ということ。

その上で他人など自分の外部のせいにせず、
結果を“自分事”として受け止めること。

これに尽きると思います。

農は命を扱う分野なので、特にその姿勢が大切なのですよね。

深刻に捉えすぎて萎縮する必要は全くありませんが、
農に携わる者は賢くなくてはならないのです。