竜ヶ崎・自然農の会(2018.11.27)

『結局、一番幸せなのは〇〇していない時』

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さる11/27(火)は竜ヶ崎・自然農の会。
食用菊、山芋、その他葉物野菜などの収穫のほか、
エンドウやソラマメの種まきなどを行いました
(エンドウの支柱はティピー型にしてみました)。

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1枚目の写真にあるのは“福来(ふくれ)みかん”という、
ちっこいみかんです。

皆さんもどこかで聞いたことがあるかもしれない、
“その場にいる人数で割り切れない数のみかんを等分するにはどうするか?”
という問題。

答えはジュースにして均等に分ける、というやつですね。

それに従えばこの“福来みかん”は大きいみかんの半分もいかないくらいの体積でしょう。

でもこの子はこの大きさで完成なんですね。

でね、ふと思ったわけですよ。

この子を絞ったくらいの量のジュースが自分に配られてきた時に、

「大きいみかんの半分以下だ」
と認識するのか、

「福来みかん1個分だ」
と認識するのかで、

結構、幸せ度って変わってくるんじゃないかと。

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僕たちは世界から見れば、“日本に生まれた”というだけで
宝くじに当たったようなものだと聞いたことがあります。

それくらい、僕たちが当たり前だと思っていることは
世界から見たら恵まれていることなのだと。

なのに僕たちは幸福度では世界で54位なんだとか。
(主観による調査なので文化的な影響も大きいですが)

恵まれすぎて、当たり前すぎて、
逆にそれをありがたいとは思えないってことですね。

ですからいつも自分より大きなみかんを見て、
あのみかんの半分だと嘆いたり、我も我もと頑張ったりするわけです。

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こういうことを言うと、
(あくまで文明的に)自分より恵まれない人たちを見て、

「ほら、十分ありがたいでしょ?足るを知るって大事だよね〜」

みたいな話になりがちですよね。

でも本当の意味での“足るを知る”とは、
他人との比較の中で感じるものじゃないと思うんです。

というか、これがあるから幸せ、あれがないから不幸、
みたいな“条件付きの幸せ”って恐ろしく脆いんですよね。

あったらあったで幸せだけど、別になくても幸せ。
っていうか幸せとかそうじゃないとか別にどうでもいい。

くらいがちょうど良いんじゃないでしょうか?(笑)

昨今の風潮として、どこか
“幸せでなければならない”的なところってありますよね。

しかし究極のところ、
“幸せについて考えていない時”が一番幸せだと思うんです。

それくらい、満たされているってことだから。

もしかしたらそれはハッピーなこととは程遠い、
むしろ大きなトラブルを抱えている状態かもしれません。

でもそれに一生懸命になっていて、余計なことを考えなくて済むなら、
むしろその方がいいのかもしれません。

逆に「私、今幸せなのかな?」って考えている時点で、暇なんですよね。

そうすると大した問題じゃないことを大きな問題にしてしまう。

それはきっと小さすぎて解決出来ないんです。
どうしようもない些細なことだから。

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ですから、
自分に配られたジュースを「福来みかん1個分だ」と認識すること。

これ以上も、これ以下もなく、他人も関係ない。
安寧と波乱の区別もない。
無理やり「1個分だ」と言い聞かせるのでもない。

ただ、「これで全部だ」と認識して、それを目一杯味わう。

そうすれば僕らは別に幸せがどうとか、
余計なことを考えずに生きることが出来るんじゃないでしょうか?