竜ヶ崎・自然農の会(2019.01.08)

『“こだわる”でも“流される”でもなく“〇〇る”』

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2019年1月8日(火)は竜ヶ崎・自然農の会。
白菜や大根、カブ、ブロッコリー、かき菜、山東菜、小松菜、人参などの収穫を行いました。

よく誤解されるのですが、
自然農は“土を耕さないこと”や“無農薬、無肥料”といった
いわゆる“方法論”が本質なのではありません。

そもそもなぜ“自然農業”でも“自然農法”でもなく、
“自然農”なのか?

それは産業や方法の別のないところでの純粋な“農”、
すなわち僕たちが生きていく上で必要な営み、
もっと言えば“生き方そのもの”を見つめ直すものだからです。

“産業”にこだわれば
「金にならなきゃ意味がない」
となりますし、

“方法”にこだわれば
「Aこそ正しい、他はクソ」
みたいな話になりがちです。

こういった“こだわり”ってね、
だんだんその“こだわり”を守ることに一生懸命になってしまって、本質から離れていってしまう気がするんですよ。

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“農”に限らず、こういうことってよくあるでしょう?

政治、経済、宗教、教育、医療その他、
芸能、スポーツなどなどあらゆるジャンルでの、

「A派とB派、あなたはどっち?」

みたいなの。

もともとは
“そのジャンルのことを純粋に良くすること”
が目的だったはずなのに、

次第に
“他派閥を潰すこと”
が目的化してしまったりするんです。

そうすると他派閥の良い意見にも耳を貸せなくなるし、
結果的には“そのジャンルのことを純粋に良くすること”からどんどんかけ離れていくんです。

そうやっていがみ合っている人たちに限って、
実はそれぞれの持つ理想が本質的には同じものだった、
みたいなこともよくある話です。

でも、それが見えない。

これってある種の思考停止、
というか“研鑽(けんさん)放棄”だと思うんですよね。

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もちろん極端な意見の人もいていいと思うんですよ?

それによって良いところも悪いところも浮き彫りになって、第三者が参考にしやすくなったりするのでね。

(いわゆる黒歴史ってそのためにあると思うんですよ)

ここで問いたいのは、
“世の中全体がどうするべき”ってことじゃなく、
“で、自分はどうするの?”ってことです。

ある意味、“皆こうするべき”が強い人って、
主体的に考え、行動することに恐れがある人なんだと思うんですよ。

だから流されることを望むんですね。

そして、
「どうせ流されるんならこの世で一等正しく、美しく、神聖なものがいい」
となるわけです。

そうすれば安心して思考停止、研鑽放棄できるから。

…ああ、これも誤解しないで下さいね。

そういう依存心が強い人もいて良いんです。

“そういう人もいていい”と言うより、
“そういう時もあっていい”という方が正確ですね。

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つまりね、何が言いたいのかというと、

「本質的に生きたいのなら
“こだわる”でも“流される”でもなく
“うまく応じる”ってことが大切なんじゃない?」

ってことなんですよ。

“本質的に生きる”

なんとも抽象的で分かりづらい表現ですね笑

“自らの分(ぶ)を余すことなく生きる”
という言い方ではどうでしょうか?

“自分の人生を目一杯味わい尽くす”
みたいな意味です。

そのために“うまく応じていく”。

すなわち、物事を抽象化してその本質を見つめ、
その上で在り方、やり方を自らの意志で選んでいく、
ってことです。

自然農の話に戻ると、
“土を耕さないこと”や“無農薬、無肥料”といったことって、あくまでその結果でしかないんですよ。

ですから環境や状況が変われば当然、
それに応じた在り方、やり方があって然りなわけです。

だのに「このやり方が正しい」とか
「そのやり方は邪道だ」みたいな話が挙がるのって、
本質から離れているって思いませんか?

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「で、結局どうすればいいの?」

と思いましたか?笑

そんなあなたに一言。

いいですか?

「自分で考えなさい」

“ひどい!(´・ω・`)”
と思いましたか?笑

でもね、これってあなたを尊重しているから言うんですよ。

あなたのことは僕ではなくあなたが決めた方がいい、
それに値するくらいあなたは素晴らしいから、言うんです。

逆に安易な「こうしときゃいいんですよ〜」の裏には
「おまえらどうせバカなんだから黙ってこうしとけよ」
みたいな見下しがあったりもするでしょう?笑

ですからあえてこの何よりも優しい、
そして厳しいアドバイスを繰り返します。

「自分で考えなさい」