【自然農(後編)】要するに“在り方”も“やり方”も「〇〇にしたらいい」

 

どもども。中津です。

 

前々回の
【自給菜園】株にしますか?それとも蕪(カブ)にしますか?

という記事では
人生のリスクヘッジとしての自給菜園の有効性について
お話しさせて頂きました。

 

そしてその自給菜園に僕がオススメしている自然農について、

前回の
【自然農(前編)】それが自給菜園にオススメである理由

という記事では、主に“やり方”の部分をご紹介させて頂きました。

 

そして後編となる今回はいよいよ
自然農の“在り方”の部分をお話していこうと思います。

(先出の2つの記事が未読の方は先にそちらをお読みになった方が吉)

 

また今回はそもそも「自然って何よ?」という部分、
すなわち僕の“自然観”についても述べておこうと思います。

 

「お前の自然観なんか興味ねーよ」

とお思いかもしれませんが(笑)、

これはどこか「人間は地球の敵」などと認識している人が
その罪悪感から解放されるきっかけになるかもしれません。

 

それとラストには、
参考になりそうな本や動画なども載せておきます。

(前回は“やり方”編とは言っても
実際的な農作業の話はしませんでしたからね)

 

ですので、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

 

それでは早速、前回語りきれなかった
“あの話”から行きましょう。

 

 


命に沿い、従い、応じ、任せる


“あの話”とはズバリ、

  • 耕さない
  • 草や虫を敵としない
  • 肥料・農薬を必要としない
  • 命に沿い、従い、応じ、任せる

という自然農の特徴の最後のひとつ、

  • 命に沿い、従い、応じ、任せる

に関する話です。

 

実はこれこそが自然農の本質であり、

  • 耕さない
  • 草や虫を敵としない
  • 肥料・農薬を必要としない

の3つはその一結果、一事例に過ぎない
と僕は理解しています。

 

なぜなら、命に沿い、従い、応じ、任せた結果、
一見、上記3つに反するように感じる事もする場合があるからです。

 

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「“耕さない”に反するのでは?」と感じがちな事
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たとえば、種播きの際に
播く範囲の深さ2〜3cmだけ、鍬や鎌で耕す事があります。

これはこれから生えてくる作物のために
少しでも有利な環境を作るため、
そこに生えていた草の根を断ち切る事が目的です
“根切り”と呼びます)。

 

また、ジャガイモやサトイモ、サツマイモなどを掘る際や、
根深ネギを植える際はどうしても土を掘り起こす必要があります。

 

つまり、ここで言う“耕さない”というのはあくまで
慣行栽培のように“全体的に、深く耕す”
というのを前提にしない、という意味なのです。

(その理由は前回お話した通りですね)

 

でも人によっては
「耕してんじゃねえか!」
となりそうですよね。

 

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「“草や虫を敵にしない”に反するのでは?」と感じがちな事
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また、草や虫を敵にしないと言えども、
作物が有利に育つように周りの草を刈ったり、
場合によっては捕殺する事もあります

(僕は基本的には殺さず、虫のことは虫に任せています
キモいし。めんどくさいし。その方がよさげなので。)

 

これは前回も述べたように、
「草や虫は敵」という前提でもって見るのではなく、
あくまでも畑の状態を知るバロメーターとして見る
という意味なのです。

 

その上で、ちょっと作物に不利な環境だと知った場合
あなたが栽培や収穫を目的とするのであれば、
作物が有利になるように最小限、手を貸す

あるいはそれが人間側が引き起こした結果なら
なるべくそういった余計な事をしない、というわけですね。

 

何かを生かす事は、同時に
その糧となる何かを殺す事でもあるわけです。

ですから見事に生きるためには
見事に殺さねばなりません

 

でもこれも人によっては
「敵にしてんじゃねえか!」
となりそうですよね。

 

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「“肥料を必要としない”に反するのでは?」と感じがちな事
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さらに肥料を必要としないと言えども、
その土地が痩せている(養分が少ない)場合には
米ぬか油粕(菜種油の搾りかす)、あるいは生ゴミなどを
振りまいてやる事もあります。

(自然農では“肥料”と呼ばず、地力の“補い”と呼びます)

 

耕す事を前提とした農業においては
養分を他所から供給しなければならないので
毎作毎作、肥料を遣るのが前提になるんですが、

耕さない畑では亡骸の層が蓄積されていく事で
長い年月を経れば、いずれどんな作物でも養えるだけの
地力を持つようになります。

(逆に何かを投入すれば養分過多になる事も)

 

ではそれまでは作物が育たなくても
我慢しなくてはならないのでしょうか?

 

そんなはずないはずですよね。

 

それは僕ら人間が生きる事
そのために糧を得るという最も原始的な営みに反します。

 

自然農の理は別に宗教の戒律ではないのです。

畑の地力が足りない時は補ってあげればいいんです。

 

すなわちこれは、畑が自立するまでは手を貸す
という親と子の関係みたいなものなのです。

過保護にして甘ったれになっても困るし、
放任あるいはスパルタすぎて作物が潰れてしまっても
結局自分に跳ね返ってきてしまいますよね?

ですから畑に純粋な関心を向け、
必要に応じて最小限の手を貸し、
あとは信頼して任せる
、というのが
賢い在り方なのではないかと思うわけです。

 

それに、稲作をやっていれば米ぬかが、
菜種を育てて油を絞っていれば油粕が、
それぞれ副産物として出てもおかしくはないですよね?
(人間が食べた後の生ゴミもそうですね)

これらは言うなればその田畑で生きた者達の“亡骸”です。
ならば田畑に振りまいてめぐらせてやる、というのは
何ら不自然な事ではないはずなのです。

 

もちろんね、
「持ち込まず、持ち出さず」
が理想、というか無難なんですよ?

でもそれに任せていたら自立にウン十年かかるところを、
人間が米ぬかや油粕、生ゴミ、あるいは腐葉土などを補う事で
亡骸の層の形成を早めてやるというのは
僕はある意味、自然な事だと思います。

(理由は後ほど僕の自然観を語る部分で分かると思います)

 

もっと言えば、肥料を遣るのが前提の品種の中には
「肥料をよく吸う」と表現されるものもあるのですが、
実はこれは「肥料に晒されても問題なく育つだけ」だという説もあります。

つまり、肥料を与えない方が元気に育つ品種もあるという事です。

そういった品種を自家採種によって繋いでいくというのも
畑の自立を早めてくれる手段の一つですよね。

ですからこれも補いのひとつです。
何も米ぬかや油粕などを振りまく事だけが補いではありません。

 

ですが、(最後の例は別としても)
この“補い”という行為も人によっては
「肥料使ってんじゃねえか!」
となりそうですよね。

 

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「“農薬を必要としない”に反するのでは?」と感じがちな事
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さらにさらに、農薬を必要としないと言えども、
テントウムシなどの肉食昆虫を畑に放つ
“生物農薬”という概念もあるくらいなので…

多様な虫や微生物などによって作物が守られている環境
意図的に作り出しているとしたら

やっぱりこれも人によっては
「農薬使ってんじゃねえか!」
となりそうですよね。

 

「草取りしてるお婆ちゃんも除草剤の一種だ!」

って言った人がいたらしいので。

笑っちゃいそうですけれど、
これ、農薬散布に反対する近隣住民と
農業関係者との間で本当にあった話みたいですよ。

近隣住民:
「農薬撒くな!」

農業関係者:
「じゃああなた達も草取りしちゃダメよ?生物農薬だからね。」

って感じで。

 

 

つまりね、何が言いたいかというと、

  • 耕さない
  • 草や虫を敵としない
  • 肥料・農薬を必要としない

という事に囚われ過ぎると、
本当の事が見えなくなるという事なのです。

(もちろんこれまで述べてきた通り、それぞれに関して
決して嘘は吐いておらず、きちんと整合性は取れているのですが)

 

前回も言いましたよね?

自然農法とも、自然農業とも呼ばない理由、
それは自然農が、メソッドや産業の別のないところでの
人間の基本的な営みである“農”の在り方を問うものだからです。

という事はつまり自然農の本質を最も表しているのは、

  • 命に沿い、従い、応じ、任せる

という部分なのです。

 


「“命”とは?」を考える上でキーワードとなる“絶対界”と“相対界”とは?


ここで問題となるのは、

「“命”とは何を指しているのか?」

という事ですよね。

 

ちなみにあなたは何をイメージしましたか?

 

畑の作物、たとえばキャベツだけをイメージしましたか?

それともキャベツとその周りの草や虫をイメージしましたか?

あるいはそこに立つ自分自身も含めてイメージしましたか?

自分の家族や友人、地域コミュニティまで含めて、でしょうか?

もしくは日本までアジアまで

ひょっとして地球全体?はたまた宇宙全体

 

はじめの方ほど“部分”、あるいは“個”に目がいっている状態
後になる程、“全体”が見えている状態である事が分かりますね。

 

自然農の創始者である川口由一さんはこのように仰っていました。

「この宇宙のすべては一体となっての営みである」

この境地に立つ事を“絶対界に立つ”と表現されています。

 

逆に

「こっちはあっちと違う」「私はあなたと違う」

というように個々別々に囚われ、お互いに対立している
その境地に立つ事を“相対界に堕ちる”と表現されています。

(ルーツはおそらく仏教)

 

この絶対界と相対界の関係というのは
【ディマティーニメソッド】悟りや愛を科学する究極の自己変革メソッドとは?

という記事で登場した統合分離の関係に近いです。

すなわち、“絶対界に立つ”とは
“悟りを開く”と同義だと捉えてよいでしょう。

 

そして絶対界に立っている時は相対界も極めています

つまり個々別々をきちんと認識しながらも、
それらの間の“繋がり”や“流れ”、“バランス”などの
全体が見えているという事ですね。

 

 

「ちょっと何言ってるか分からない」

という方向けに、こんな話を用意しました。

 

Aさんと、Bさんは2人ともナポレオンに関する調べ物をしていて、
それぞれ別の文献を読み、別々の記述を見つけました。

2人が見つけた記述とその後の反応は以下の通りです。

 

Aさんの見つけた記述:

『ナポレオンは1日に3時間しか睡眠をとらなかった。』

 

これを読んだAさんは

「ナポレオン凄い!やっぱり寝ずに努力する人だったんだな!」

と感心してしまいました。

 

Bさんの見つけた記述:

『ナポレオンは無類の風呂付きで、長い時は1日に6時間も入浴する事もあった。』

 

これを読んだBさんは

「ちょww6時間も風呂入ってるとかww怠けすぎワロリンヌ」

と嘲笑いました。

 

数日後、AさんとBさんがナポレオンについて話す機会があったのですが、

  • Aさんは「ナポレオンは努力家
  • Bさんは「ナポレオンは怠け者

という見解で意見が割れ、ついには喧嘩になってしまいました。

 

それを端で聞いていたCさんは冷静にこう言いました。

 

 

「お風呂の中で寝てたんでしょ」

 

AさんとBさんは納得がいって、
ナポレオンの事を特に努力家とも怠け者とも思わなくなりました

そして2人とも
「何であんなに熱くなっていたんだろう?」
とお互いに笑いながら仲直りしましたとさ。

 

 

これはある小説で登場して
「なるほど!」と思わされた一説です。笑

(内容はだいぶアレンジしてますが)

 

まあ史実はどうなのか分かりませんが、
要するに何が言いたいのかというと、

全体が見えている(絶対界に立っている)のと
個々別々に囚われている(相対界に堕ちている)のとでは

その後の感情思考行動結果
すべてが違ってくるよね、という事なのです。

参考記事:
「思考は現実化する」では不完全!?正確には「〇〇は現実化する」!

 

ですから、

  • 命に沿い、従い、応じ、任せる

という自然農の理における“命”をどう認識しているかで、
100人いたら100通りの自然農が生まれる
というわけです。

 

これはどれが正しくて、
どれが間違っているという話ではありません。

金子みすゞさんじゃありませんが、

「皆違って、それで世界は完璧」

なのです。

 

ですからここで、

「なるほど、絶対界は善で、相対界は悪なんだな」

と思った方はちょっと注意が必要かもしれません。

(もちろんそう思う方もいていいんですが…
ここではあえて注意を促してみます)

 

それは“善”と“悪”というジャッジ
すなわち“分離”の世界に生きている事になります。

さっきのAさんやBさんみたいに。

 

この場合、“絶対界に立つ”とは
善悪の別のないところから、
俯瞰して物事を見るという事なのです。

さっきのCさんのように。

 

そして、それはどっちがいいとか悪いとかではなく、
また一度悟ったらずっと悟りっぱなしというものでもないのです。

 

たとえば、地図にも載っていないような見知らぬ土地で
道に迷ってしまったとしたら、あなたはどうしますか?

 

きっと高台に登って全体を把握しますよね?

 

で、その後はどうですか?

その高台にずっと留まるでしょうか?

 

そんな事ありませんよね。

きっとそこからまた目的地に向かって
自分の足で歩いていきますよね。

 

そしてまた迷ってしまったら再び高台に登り…
という風に繰り返しながら進んでいくと思います。

 

人生も同じなんです。

 

僕らは絶対界相対界を行き来しています。

 

ですが、先の例えで言えば、
高台に登る前とでは全然違うでしょう?

認識(観念)が、そこから生まれる感情が、
思考が、行動が、そして結果が。

 


僕、中津響の“自然観”について


さて、何だか壮大な話になってきましたね。

ここに至るまでにおそらく
8割の方は寝てしまった事と存じます。

ではここからは残った2割の方のうち、
また8割が寝てしまうような話を。笑

 

自然農、自然農とここまで当たり前のように連呼してきましたが、
そもそも“自然”って何なんでしょうね?

 

あなたはどうですか?
“自然”をどのように認識しているでしょうか?

 

実はこれも100人いたら100通りの自然農(※)が生まれる
その要因となっている“認識”です。

※あるいは自然農法や自然栽培についても

 

これからお話するのはあくまで
“僕、中津響の自然観”である事をご理解頂ければ幸いです。

 

自然というと森や山、川、海などの環境や、
鳥虫獣などを想像される方が多いと思います。

 

では都市工業地帯大農場
あるいはピラミッドや古墳などの遺跡は?

 

 

「それは人工物であって自然物ではない

と思われましたか?

 

では、そんなあなたにお尋ねします。

ハキリアリという蟻をご存知ですか?

彼らはその名の通り、木の葉を切り出して巣穴に持ち帰り、
それに菌を植え付けてキノコを栽培し、それを食べるんです。

つまり彼らは農業をするんですね。
彼らの巣は農場となっているのです。

 

このハキリアリ達の農場自然物ですか?

 

 

どうですか?

 

ちょっと例えが特殊すぎる?

 

では蜘蛛の巣蜂の巣はどうでしょうか?

ツバメの巣ビーバーの巣穴は?

 

 

「それらは自然物だろ」って?

 

ではなぜ人間の作ったものだけは違うのでしょうか?

 

人間だけが他の生き物を殺したり、環境を破壊したりするからだ!」

 

ふむ。果たしてそうでしょうか?

自ら手を下すかどうかは別として、
食物連鎖という意味ではどの生き物も他の生き物を糧としています。

食べる目的以外でも、
自らの身や群れを守るために他の種を殺す事もありますよね。

あと、ヤギなんかは木の外皮も食べてしまうので、
天敵がいないとそこはハゲ山になってしまう事もあるのです。

 

ね?

 

人間だけが殺すとか、壊すってじゃないですか?

 

もっと言えば、お米や小麦、ジャガイモなどの穀物類
あるいは牛、豚、鶏などの家畜達

彼らは人間に育てられていなかったら、
これだけ地球規模で繁栄する種となり得たでしょうか?

 

確かに屠畜など、
個体単位で見たら可哀想と思う事
あるかもしれません。

 

でも種の繁栄という観点ではどうですか?
子孫を残す事人間が確実にやってくれるわけでしょう。

 

そういう意味では立派な共生関係と取れなくはないですか?

(いやむしろ人間の方が
彼らの繁栄のために働かされているのかもしれませんよ?)

 

そう考えれば、
人間の行いが殺戮破壊だけというのは違うでしょう?

 

つまりね、人間も自然の一部だって事なんですよ。

 

自然と人間という相反するものが存在するわけじゃないんです。

相反する…どこかで聞いた言葉ですね?

 

 

そう、“相対界”です。

「自然=人間以外」というのは相対界に立ったものの見方なんですよ。

 

 

そもそも自然という言葉だけを見れば

「自ずから然らしむ」

すなわち
「勝手にそうなる」的な意味でしょう?

 

“どう”なるんでしょう?

 

 

“本来あるべき姿”になるんじゃないですかね?

つまり自然とは言葉通りに意味をとれば、
この宇宙における秩序、法則たいなものです。

 

って事は、逆説的に言えば
この世で起こるありとあらゆる出来事は自然現象
って事になりません?

だって、“そう”なっちゃったんだから。

 

ああ、誤解のないように申し上げておくと、
僕は別に環境保護や動物愛護、平和運動等を
否定しているわけじゃありませんよ?

そう捉えられたのであれば、
それこそ“相対界に立ったものの見方”です。

 

環境破壊があれば環境保護が生まれ、
動物虐待があれば動物愛護が生まれ、
戦争があれば平和運動が生まれますよね?

そうやってバランスを取りながら、
歴史を積み重ね、僕らは進んできたわけです。

 

それでこの世界は完璧と言っているんです。

 

ですからさっきはあえて
僕の自然観を強調するような言い方をしましたが、

ぶっちゃけ自然をどう認識するかについても

あるいは先の

  • 命に沿い、従い、応じ、任せる

“命”をどう認識するかについても、

100人いたら100通りあっていいって思うんです。

 

だからこそ前回自然農の考え方ややり方も、
100人いたら100通りあっていいと述べたのです。

 

逆にその100人が全員同じ考え方ややり方だったら…

滅びますよ。確実に。

 

植物だって全部が一斉に芽を出す事はしません。
必ず時期をずらして生えてくる個体がいます。

昆虫だって一斉に羽化する事はありません。
必ず蛹の時期が他より長い個体がいます。

 

その方がどれかが生き延びる可能性を残せるからです。

 

似たようなものはあっても
どれひとつとして同じにはなりません。

それが自然というものです。

 

ですから自然農もやる人によって
どれひとつとして同じにはならないんです。

 

そして、それでいいんです。

 

それで完璧なんです。

 


内なる声を聴く事と宇宙のすべてを見渡す事


というわけで自然農の“在り方”編でした。

要するにね、在り方やり方
それがあなたの価値観に合致しているなら、

「好きにしたらいい」

って思うんです。

 

「そんな結論を言うためにこんなに語ったの!?」

と思われるかもしれませんね。

 

その通りです。笑

 

こんな話があります。

僕はかつて熊野本宮にお参りにいった事があるのですが、
まず最初に近くに車を停めてお参りをした後、時間が余ったので
バスで移動して熊野古道の中辺路を2時間程歩いてから
再び参拝したんです。

 

もうね、全然違いましたよ。

だいぶ信心深くなってました。笑

 

それと同じように、
全く解説をすることなくこの結論を突きつけられるのと、
ここまで語った後でこの結論を言われるのとでは
全然違うと思いませんか?

 

それはつまり、あなたの“認識”の差なのです。

さっきの高台に登る云々の話と一緒です。

 

もっと言えば、僕から聞いた話よりも
実際に自分で畑に立つ事で得た気付きの方が
何万倍もあなたの意識を拡張してくれます。

ですから僕の希望としては、
ぜひともあなたに経験して欲しいのです。

あなたの内なる声のままに、です。

 

「ん?さっきは視野を拡げるとか、
視点を上げる的な話をしてなかったっけ?」

「それなのに“好きにやれ”とか
“内なる声”に従えとか…それでいいの?」

と思うかもしれませんね。

 

絶対界に立つ、あるいは人によっては
神視点に立つなんて表現をする人もいますが、

そんな事を言われると、どこか
“自分を捨てなければならない”
と感じてしまうかもしれません。

 

ですが、そうではないのです。

 

むしろそれはどんどん
“本来の姿、ありのままの自分”
になっていく事と同義なのです。

 

自然という宇宙法則秩序
どこに働いているんでしたっけ?

 

どこか遠くの宇宙ですか?

次元上昇だか何だかを繰り返した先ですか?

 

もちろんそこにも働いている事でしょう。

でもさっき僕は「人間も自然の一部」と述べましたよね?

 

つまり、僕たち一人一人の中にも
まったく同じ法則、秩序が働いているんです。

宇宙は僕らの外にも、
そして内にもちゃんと存在しているんです。

 

ですから自分の内なる声を聴くという事は、
この宇宙をすべて見渡せる位置に立つ事と
実は同じなのです。

別にカリン塔に登らなくても、
神様の宮殿や界王星、界王神界まで行かなくても、
今ここで絶対界に立つ事は出来るはずなんです。

 

しかしながら、
ひとつだけ意識すべき事があるとしたら…

その“内なる声”がクリアに聴きとれるよう、
自分を整えておく事ですかね。

物理的にも、精神的にも。

 

僕も及ばずながらこのmomotaryというサイトにて
そのための知恵の分かち合いをしているつもりです。

 

とは言え、“好きにやる”ために
先人のやり方をインプットするのはとても有意義です。

(あまり方法論に囚われすぎない事は大事ですが)

 

ですので、最後に僕がこれまでに読んで大変参考になった
自然農関連の書籍をいくつか載せておきますね。

  1. 『妙なる畑に立ちて川口 由一 (著)
  2. 『自然農・栽培の手引き』鏡山悦子 (著, イラスト), 川口由一 (監修)
  3. 『自然農の野菜づくり』高橋 浩昭 (著), 川口 由一 (監修)
  4. 『これならできる!自然菜園―耕さず草を生やして共育ち』竹内 孝功 (著)

 

注意点:

1.についてはやり方というよりは、
主に在り方について書かれています。
(ですが、どれか一冊だけを選ぶのであれば、
僕は迷う事なくこれを推します)

また2.3.についてもそのまま鵜呑みにするのではなく、
著者の居住地あなたの畑のある地域との
気候土壌などの性質の違いに合わせたアレンジは必要です。

そして4.については正確には自然農とは違うのですが、
手の貸し方においてとても参考になるので紹介させて頂きました。

 

まあ僕が自然農を始めた頃より書籍もだいぶ増えてきたので、
これら以外でも本屋さん等で「これは!」という本があったら
それを買って読んでみるというのもよいでしょう。

 

また僕自身も自然農のYouTubeチャンネルを作りました。

この記事を書いている
2019年6月現在はまだ動画数も少ないですが、
今後ちょくちょく増やしていく予定ですので
ご興味ある方はぜひチャンネル登録をお願い致します。

↓  ↓  ↓  ↓  ↓

『momotary 自然農チャンネル』

 

あとはこのサイトにも
2011年に僕が自然農を始めてから今日に至るまでの軌跡を
Photolog(写真付き日記)として紹介するコーナーを設けております。
こちらもよろしければどうぞ。

↓  ↓  ↓  ↓  ↓

『自然農Photolog』

 

さて前々回、前回、そして今回と
リスクヘッジとしての自給菜園の話から始まり、
最後は哲学的な話にまで発展してしまいましたが、
いかがでしたでしょうか?

あなたが“本来の姿、ありのままの自分”に立ち返り、
あなた自身の飽きない人生を生きるために、
自給菜園自然農がその一助となれば幸いです。

 

最後までご覧頂き、ありがとうございます。

素敵なムカデライフを。

 

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