竜ヶ崎・自然農の会(2019.07.23)

【“振る舞い上手”より“〇〇〇上手”に】

一昨日7/23(火)は竜ヶ崎・自然農の会。
“あるもの”とナス、ピーマン、シシトウ、ニンジンの収穫のほか、
各種野菜周りの草抑えを行いました。

さて、上で述べた“あるもの”とは…

この消火器のようなオバケズッキーニ。笑
(写真1〜3枚目)

お店ではまず見ないと思いますが、
輪切りにしてステーキにしたり、
種のまわりをくり抜いて肉詰めにしたりすると
ホロホロとした食感がたまらなく美味しいんです。
(このホロホロ感は小さいズッキーニにはないかも)

葉物野菜や根菜などの間引き菜や
里芋の親芋、あとはサツマイモのツルなんかもそうなんですが…

畑をやっているとこのような
「市場に出回らないけれど美味しいもの」
が結構ある事に気付かされます。

スーパーに並んでいるような野菜を“正解”として
これらが“不正解”だとして捨ててしまうと、

間引き菜はともかくとして里芋の親芋や
サツマイモのツル、先のオバケズッキーニのような
味や食感を楽しめない事になってしまいます。

それは何とも勿体ないですよね。

人生における“味わい”の豊かさが狭まってしまいます。

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ところで今回、この自然農の会に参加してくれた中村さん
(Dr.ディマティーニのセミナーでご一緒した仲間)と
帰りに色々お喋りをする中で
「面白いな〜」と思った話があります。

それは、

「僕らは味わう事しかできない」

というものです。

僕らは起こる出来事に反応し、
それから自分で思考や行動を決めていると思っていますよね?

ですが、ある説によると

「僕たちの思考や行動は20分前にすでに決定している」

のだそうです。

本当だとしたらなかなか衝撃的でしょう?笑

考えてみれば、
思考なんてものは
“脳の電気信号の結果”なわけだし、

行動なんてものは
“神経や筋肉などの化学反応の結果”なわけです。

それは水が低きに流れるように
物理法則に則って“ただ起こっているだけ”なんですね。

だから
「〜って考えて、〜という行動をとった」

というのも、
自分でそういった思考、行動をとったわけではなく
そういう思考や行動をとった時の状態を味わっただけ、
なのだと。

ですから僕らに出来るのは
“味わうこと”だけなんじゃないかと思うわけです。

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まあ、この説が正しいのかどうかはさておき、
先のズッキーニの件でも登場した

「これこそが正解。他はゴミ。」

みたいな考え方って、
ちょっと勿体ない気がするんですよね。

もちろん理想とする結果を得るため、
またそのための行動をとるためには
有効な場合もあるのかもしれません。

でも僕は思うんです。

本当に欲しいのはその“結果”なんですかね?

多分ね、その結果を得る事で感じられる
(と期待している)“気持ち”の方が
本当に欲しいものなんじゃないでしょうか?

言い換えれば“味わいたい”んですよね。

別にそういった猪突猛進的な生き方の味も
それはそれで尊いものだと思うのですが、

一度きりの人生ですから、
そういった“濃い味”だけじゃなくて
もっと繊細な味とか、素材の味みたいな

あまり見向きもされないような味を
楽しむのも一興だと思いませんか?

“濃い味”を好めばきっと
“振る舞い上手”でなくてはならないでしょう。

そしてその分、うまく立ち振る舞えなかった時の味を
「ダメだ!」と切り捨ててしまうんでしょう。

先のオバケズッキーニのように。

でもそこにある味も楽しめるようになれば、
何というかほら、お得じゃないですか。笑

ですから、人生においては
“振る舞い上手”を目指すよりも

“味わい上手”を目指した方が
豊かな気持ちになれるんじゃないかなと
思うわけです。

もしかしたら、そうなれるかどうかも
“20分前にすでに決まっている”のかもしれませんけどね。笑

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そういった意味でも自然農って
“味わい上手”になれる気がします。

“自然農法”とも“自然農業”とも呼ばないでしょう?

農法であれば正解、不正解があります。
メソッドですから。

農業であれば「売上がなければ意味がない」となります。
産業ですから。

“自然農は”これらの別のないところでの純粋な“農”、
ひいては“人生”を探求するものです。

つまり自然や人生の絶妙さ加減を
“味わう”ものだと僕は解釈しています。
(僕個人はね)