“絶望は愚者の結論である”
(by ベンジャミン・ディズレーリ)
今、あなたはもしかしたら人生のドン底にいて、
一筋の希望も見出せない、と感じているかもしれません。
ですからこんな言葉を聞いたところで
きっと「うるせーよ」って思いますよね。笑
まずはじめにお伝えしておきたいのは、
あなたは決して愚者ではないという事です。
あなたがこのページに辿り着いたのは、
意識的にしろ無意識的にしろ、
何らかの解決策、もしくは救いを求めての事だと思います。
であるならば、その時点であなたは
絶望を“結論”にしてはいないはずです。
あなたは絶望が単なるプロセスに過ぎないと本当は知っています。
あなたはそれだけでもう十分に賢者なのです。
そして確信を持って言いますが、
あなたはもっともっと賢くなります。
真の賢さは希望であり光である事も
同時にあなたは知っているからです。
違いますか?
そうでしょう?笑
では、せっかくの機会ですし、
今日はあなたの歩む道を照らし出してくれる
“真の賢さ”について一緒に考えてみましょう。
賢さとは?“智慧”と“知恵”の違いとは?
賢さと一口に言っても、
何かを覚えるのが上手な事や、頭の回転が早い事、
新しいものを生み出すのが得意な事、etc…
色んな賢さがありますよね?
ここでは
“真理や本質を見抜く力”
という意味で話を進めていきましょう。
“どう考えるか”、“どう行動するか”の前段階である
“真理や本質を見抜けるか”という事、
言い方を変えれば、
物事を、世界を“どう捉えるか”という事が
最も重要になってくるからです。
この“どう捉えているか”が、
自分の中にある“認識”、
あるいは“観念(=信じている事)”
というやつですね。
そこがズレていてはシャツの最初のボタンを掛け違えるみたいに
“どう考えるか”、“どう行動するか”もズレてしまいます。
このあたりは、
という記事等でお話ししましたので、
読んで下さった方はピンとくるのではないでしょうか。
ちなみにこの賢さを働かせようとする事、
すなわち“「真理や本質を見抜こう」とする事”を
仏教では“智慧(ちえ)”と呼び、
同じ読み方でも“知恵”とは明確に区別しているようです。
知恵はどちらかというと、先の
“どう考えるか”、あるいは“どう行動するか”
というような実作業的、実利的な意味合いが強いです。
それに対して“智慧”は暗闇の中の灯火に例えられます。
暗闇とは「どう生きるべきか分からない」、
あるいは分からないだけでなく、
それを「知ろうとしない」という事の象徴でもあります。
冒頭で述べた“絶望”というものもそうですね。
そういった暗闇を照らし、自らの道を歩む助けとなるもの、
それが“智慧”なのです。
3つの智慧(真智、妄智、邪智)
自然農を確立した川口由一さんは著書『妙なる畑に立ちて』にて、
人間に与えられた智慧についてのお話をされています。
(これもルーツは仏教ですね)
この智慧は人間である以上、誰もが持っているものなのですが、
以下の3種類に大別されるとの事です。
- 真智(無差別智)
- 妄智(分別智)
- 邪智(世間智)
一つ一つ見ていきましょう。
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真智(無差別智)
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真智は読んで字のごとく“真の智慧”です。
そしてそれは“無差別智”と呼ばれるものです。
この真智(無差別智)は
【自然農(後編)】要するに“在り方”も“やり方”も「〇〇にしたらいい」
で述べた“絶対界に立つ”という事と同義です。
すなわち、
- こっちとあっち
- ポジティブとネガティブ
- 善と悪
- 生と死
- 大と小
- 遠と近
- 自と他
といった“ジャッジ”、“分離”のないところに立ち、
物事を見極めようとする事ですね。
口で言うのは簡単なのですが、
これは結構大変な事です。
何故なら僕達一人一人には
自身の価値観というものがあるからです。
価値観はいわば色眼鏡みたいなものです。
色眼鏡越しで世界を見ているので、僕らはどうしても
上記のようなジャッジや分離を生み出してしまうものなんです。
もちろんその色眼鏡は否定すべきものではありません。
むしろ、愛すべきものです。
そもそも生きている以上、すなわち
この肉体という“分離”の産物に収まっている以上、
その色眼鏡を外す事は出来ないのです。
しかし宇宙の真理や物事の本質を見極めるためには
色眼鏡のない状態で見る必要があります。
ですからまず自分が色眼鏡をかけている事、
そしてそれがどんな色眼鏡なのかを知り、
その上でその色を透明に近付けたり、
ピントを調整してやったりする必要があるんですね。
それにより僕らは
この世界を正確に認識する事が出来る、
というわけです。
このジャッジや分離なしに世界を見られている状態が
いわゆる“悟り”というやつです。
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妄智(分別智)
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妄智の“妄”は妄想という言葉からも分かるように
“偽り、正しくない”という意味です。
真智が無差別智であるのに対して、こちらは分別(ふんべつ)、
すなわち色眼鏡をかけた状態で世界を認識しており、
なおかつその色眼鏡の存在にすら気付いていない状態ですね。
そして多くの場合、
その色眼鏡によるジャッジによって
目的や目標、あるいは敵を作ります。
たとえば、
「キャベツに付くアオムシを殺せば解決するんだ」
「ガン細胞さえ切れば健康になれるんだ」
「あの独裁者さえ倒せば自由で平等な世の中になるんだ」
みたいな事です。
しかしこの場合の目的や目標、
敵といったものは実は幻想なのです。
考えてもみて下さい。
物事の個々の要素だけ、部分だけ、
あるいは片面だけしか見えておらず、
その個々の要素や部分の繋がりや流れ、
片面の裏側にあるもう片方の面については
無頓着になってしまっているわけです。
いわば正確な像を結ばない、
あるいは本来の色が分からない眼鏡を
かけているようなものです。
そんな状態で
「よし、あそこに行こう」
と思って歩き出しても…
ドブにハマったり、
崖から落ちたりしそうですよね?
そして延々と彷徨い続け、
よしんば目的地に辿り着いたとしても…
「何か違うな」
となるわけです。
そりゃそうですよね。笑
そもそもちゃんと見えていない、
つまり世界を正確に認識できていないのですから。
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邪智(世間智)
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何だか厨二病っぽい言葉ですが…笑
世間智、すなわち世間体を気にしたり、
有力者など他者の言うがままになろうとするのは
邪悪な智慧であるという事ですね。
この邪智は妄智よりもさらに真智に遠い智慧です。
妄智(分別智)は不正確、不完全ではあっても、
まだ「真実を見よう」とする姿勢が見られます。
ですが、この邪智(世間智)にはそれがありません。
“真実がどうであるか”を自ら見極める気はなく、
ただ他者の意見に追随するだけなのですから。
ここであなたは、
「え?じゃあ例えばメンターの意見とかも聞くべきではないの?」
と思われるかもしれません。
いや〜鋭い質問ですね。笑
もちろん、真実を見極めるためにメンターの意見を聞き、
それを実践してみる事で自分の見識を広げる行為を
自らの意志と責任によって行なっているならいいと思うんです。
(それが真智かどうかは別として)
ですがここでいう世間智とは
自分の意志を持たず、責任も負わず、
さらにそれが真実かどうかなど考えもせず、
ただ「周りがそうしているから」という理由で、
あるいは保身のために、
誰かに取り入ったり、
他者の意見を取り入れたりしようとする
浅ましい智慧の事を言っているのです。
こういう智慧が働いている時、
僕らは妄智が働いている時以上に
道に迷うし、他人に振り回されます。
それでいて
「自分でそれを何とかしよう」
という気がないので、
その振り回してくる誰かの妄智(※)から来る
感情、思考、行動、そして結果を
まるでメガホンのように拡大します。
※他人を振り回す人達の中心にいるのは大抵“妄智”の持ち主です。
ブラック企業を作っているのは
その会社の経営者だけだと思いますか?
そんなわけありませんよね。
そこの風紀にただただ合わせている勤め人達も
立派にそこに貢献しています。
僕らはなぜ智慧を求めるか?
ここで、
「なるほど!真智が良くて、妄智や邪智はダメなんだな!」
と思われた方は、ちょっと注意が必要かもしれません。
ここからは僕の個人的見解ですが、
“邪智”という言葉の“邪(よこしま)”という字についても
いわゆる正義と悪みたいな道徳的な意味合いではないと思うんです。
ここではあくまで、
「“智慧”というものにとっては“よくない”」
というシンプルな意味で捉えた方が混乱しなくて済みます。
たとえば暗闇の中を安全に進んでいくためには
灯りを消すのは“よくない”ですよね?
夜目を鍛えるというのもありですが…笑
その場合だったら、たとえば目隠しをするのは“よくない”ですよね?
つまり“合理的か、合理的でないか”という意味です。
それと同じように、
人生という先の見えない道を照らす智慧や賢さにとって、
何が合理的で、何が合理的でないかという話なんです。
そして仮に真智が働いた瞬間があったとしても、
ずーっとそこに留まり続けられるわけではありません。
「一度悟ったら一生安心!もう何もしなくていい」
…というわけではないのです。
智慧や賢さが“灯り”に例えられる事が
それを象徴していると思いませんか?
灯りとは、
暗闇(見えない世界)を照らすためのものです。
その時点で、僕らには生まれつき
“未知のものを知ろう”という方向づけがされているんですね。
だってそうでしょう?
“未知のものは未知のままでいい”のであれば、
灯りなんか要らないじゃないですか。
ずっと暗闇の中にいればいいでしょう?
そしてその事に疑問も不安も、
それから飽きも感じるはずがないでしょう?
ですから疑問や不安、飽きを抱く時点で、
僕らは未知のものを追い求める存在であると
自ら証明しているようなものだと思うんです。
真智だろうが、妄智だろうが、邪智だろうが、
そこから脱却するために働くものである事に変わりはないのです。
そして未知のものが既知のものになった瞬間、
また別の未知のものがある事に気付きます。
ソクラテスの言う“無知の知”というやつですね。
それは永遠に終わりがないのです。
…というと無限ループみたいですが、そうではありません。
これは少しずつ
自分の既知の領域(コンフォートゾーンと呼びます)を
拡げていく作業なのです。
この作業を“冒険”と呼びます。
ちなみに
【コンフォートゾーンを拡げる】“ありのまま”と“今のまま”は違う
という記事でも触れたように、
好奇心、すなわち自らの価値観に沿った
自発的な行為でなければ、
それは“冒険”とは呼びません。
「お前は無知だからもっとコレを勉強した方がいいよ」
というような押し付けによって、
仕方なくとる行動は冒険ではない、という事です。
あ、そうそう。
さっき真智や妄智の解説をした際に、
自分の価値観を色眼鏡に例えましたよね?
それなのに自分の価値観に沿った行為をとってもいいの?
とお思いになるかもしれませんが…
さっきも述べたように
自分の価値観は否定すべきものではないのです。
ただ、
「自分は色眼鏡をかけている」という事、
そして、
「その色眼鏡はどのような色や度が入っているのか」という事、
これらを知る事が、
物事の真理や本質を知るための第一歩として
必要不可欠だと言っているんですね。
そうすれば、補正が効くじゃないですか。
ちなみに自分の価値観を知った時は、
何とも言えない感謝の涙が溢れてきます。
それが自分の価値観を愛する、という事なのです。
愛するとは好きになる事じゃないんですよ。
で、その上でどう生きるかについては、
自分の価値観に沿って生きるのが自然だし、
それこそ合理的だという事なのです。
参考記事:
“冒険”の話に戻りますね。
ここまでの流れとして、
絶望しないためには、
真の賢さ(真智)を身につける事、
そして、そのためには“冒険”をする事
というお話をしてきました。
ここであなたは“絶望しない”という言葉について、
“幸せ”というものを思い浮かべたかもしれません。
しかしながら“冒険”ですから、
いわゆるポジティブな感情という意味での
“幸せ”だけが待っているわけではありません。
それなのに何故コンフォートゾーンを拡げるのか?
簡単です。
ずっと同じコンフォートゾーンに留まっていると
飽きちゃうからです。
疑問や不安が募っちゃうからです。
退屈は死ぬより辛い事だと言います。
だから僕らは退屈しのぎのために
今度はそのコンフォートゾーン内で
「あーでもない、こーでもない」
とジャッジを始めちゃうものなんです。
そうならないためには、冒険し続けるしかないんです。
でも言い換えればそれは、
“いつまでも飽きが来ない”って事です。
ここで、別記事でも紹介した
僕の大好きな名言をご紹介しましょう。
肝心な事は、望んだり生きたりすることに飽きない事だ
(by ロマン・ロラン)
常に幸せじゃなくてもいいじゃないですか。
生きる事に飽きなければ。
具体的にどうしたらいいの?
「なるほど、でもどうせ灯りを持つのなら、
妄智や邪智よりも真智を働かせたいな」
「そのためには具体的にどうしたらいいの?」
と思われる方も多いと存じます。
これには色々な方法があります。
それこそ出家して修行に励む人もいれば、
ビジネスや投資を通してそこに辿り着いてしまう人もいます。
自然農の畑で多様な命のめぐりに触れる中で気付きを得る人もいれば、
瞑想やホ・オポノポノにヒントを得る人もいるでしょう。
あるいはディマティーニメソッドによって
自らの中にあるジャッジや分離を統合したり、
バリューファクターによって
自らの価値観を明確にしたりする事も効果的です。
こういった具体的な知恵の分かち合いも
当サイトにて行なっていますので、
まずは上記の中から
気になったものに関する記事を読んでみる、
あるいは本やネットで調べてみる、
というのがとっかかりとしては良いのではないでしょうか?
ちなみに今回の真智、妄智、邪智に関しては
先に述べたように川口由一さんの
『妙なる畑に立ちて』
という書籍がとても参考になりますよ。
さて、それでは最後になりますが…
ここまで読み進めてみて、いかがですか?
人生に絶望していた方は、
少しは光明が見えてきたでしょうか?
真の賢さは希望であり光です。
あなたの飽きない人生のために、
その灯火をぜひ有効活用して頂けたなら
発信者としてこんなに光栄な事はありません。
素敵なムカデライフを。